はじめまして!
『考えるフラッグフットボール・アメリカンフットボールの会』会長の吉野太朗庄(たろう)です。
数ある情報サイトの中から『考えるフラッグフットボール・アメリカンフットボールの会』に訪れていただき誠にありがとうございます。
ここでは、私の経歴とこの会を発足するに至った経緯をお話しさせていただきます。
アメリカンフットボールとの出会い
私の父は電気工事士として自営業で営んでおり、私も父の跡を継ぐものだと考え父と同じ資格が在学中に取得できる東京電機大学高等学校に通うことになりました。
入学してどこの部活に入ろうかと悩んでいたとき、グラウンドで一際目立っていたのがアメリカンフットボール部。
どうでもいい話ですが私は昔からドラゴンクエストが好きで、映画も洋物の鎧などを着ているチャンバラ系が好きなんです。
なのでアメリカンフットボール部しか目に入らなかった状態ですね笑
高校ではオフェンスはRB・WR、ディフェンスはSS・CB、スペシャルチームではPとRをやっていました。
あまり人数が多い学校ではなかったのでフル出場です・・・。
でも自分たちでプレイを考えそれなりに楽しくやっていました。
そして迎えた高校最後の秋季大会では、本来負けるはずがない1・2年生だけで構成された進学校チームに負けてしまったんです。
当時は12人しか部員がいなく試合前に2人怪我人が出て実際は試合ができない状態。
仕方なく1人の怪我人をフィールドに立たせて試合を行いましたが、試合中には一人が骨折、一人が脳震盪。
ランを主体としたチームだったので気づけばボールを持てるポジションは自分しかいなくなっていたんです。
「もうこいつしかいない」と気づいた相手が全員自分に目を向いている恐怖はすごかったな笑
終わった瞬間悔しくて悔しくてたまりませんでしたよ。
そこでやっと気づいたんです。
自分は死ぬほどアメフトが好きなんだなって。
そして大学へ進学することを決め、運良く何校か大学からのお誘いがありました。
その中で私は日本体育大学を選んだんです。
初めての日本代表と上達したポイント
入学して初年度に日本アメフト界では初めてのU −19日本代表が結成されることとなり、私はWRとして選ばれることとなりました。
そしてアメリカへ渡り結果は3位。
しかし、実はその頃はハッキリ言って下手くそでした。
というのも、WRの経験はあるものの高校時代はほとんどRBをやっていたんです。
ただ身体が細かったので入学後すぐにWRにされてしまったんですよね笑
だからWRのスキルなんて全然わからない状態。
2年生になってもなかなか伸びず、3年生になる春のこと。
そこから一気に伸び始めだんです。
きっかけは外部コーチの存在。
当時の日本体育大学はWRコーチはいたのですが「ハンドキャッチ!」しか言わなく、先輩方も基本的には「見て学べ」スタイルでした。
しかし、知っていることとできることは違うのでなかなか上達しなかったんです。
でも、外部コーチが来てからは変わりました。
当時Xリーグのアサヒ飲料でプレイされていた方が仕事の関係で東京の方にいらしていたので、マメに教えに来てくれるようになったんです。
そこで様々なスキルやテクニックを細かく指導してもらい、ほんと目からウロコものでしたよ。
3年生の頃はそれなりに活躍できたのですが、悲劇はその後でした・・・。
最終学年を迎えた私は、練習で飛び込んで触れそうなボールには必死で飛び込んでいたんです。
だけど流石に地球とケンカし過ぎたせいで脳震盪がクセになっちゃったんですよね笑
最後の秋季大会も半分くらいしか出てない状態。
そのせいもあって、自分のアメフト人生はここで終わるんだなって思っていました。
世の中の広さを知る
大学のリーグを終え就職の目処も立っていた矢先、同期のRBにたまたまXリーグのオンワードスカイラークス(現ノジマ相模原ライズ)の見学に誘われたんです。
同期はすでに入部を決めており、誘い文句は「俺たちの知っていたレベルより遥かに高くて面白い」でした笑
一応、練習できるかはわからなかったのですが防具は持っていったんです。
行ってみると興奮の連続!!
当時は深夜にまだXリーグの試合をやっていたので、ブラウン管の向こうにいるはずの選手が目の前にいるんです。
芸能人を見るような気持ちで興奮しましたよ笑
そして、練習に参加してもらってさらに興奮。
WRをやっている方ならわかると思いますが、人によって投げるパスの重さやボールの取りやすさってありますよね?
私が経験したのは、こんなに柔らかくてピンポイントの場所に投げられる人がこの世にいたのかとWRからしたらテンションMAXな経験です笑
楽しくてしょうがなかった。
楽しくてしょうがなかったんですけど、やっぱり脳震盪が心配でした。
しかし、その相談をコーチにするとカイロプラクティックを紹介してくれたんです。
実際に行ってみると、首の骨がずれていることが判明。
要は首の骨が本来の形では無くなっているので衝撃を吸収できなくなっていんたんです。
で、4回くらい通ったらあっという間に治りました笑
そして迷わずオンワードスカイラークスへ入団しました。
ただそんなに順調ではなかったんですよね。
日本代表の壁
最初の2年は全く試合に出れなかったんですよ。
というのもその頃は教員を目指しており、中高保健体育は持っていたのですが通信教育で幼稚園と小学校を取っていたんです。
なので資格取得の勉強をしながら公立教員の受験をしていたので春の時期に全く練習に行ってなかったってんですよね・・・。
Xリーグは秋の登録人数が70人と決められており、春に実力を見定め夏に登録する人を確定します。
私は春参加していないので対象にならなかったんです。
しかし、迎えた社会人3年目。
一度アメフトに集中しようと思った結果、春に活躍し秋の登録に入ることができました。
それなりに3年目のシーズンは試合に出て活躍することができ、日本一に貢献することができたんです。
そして翌年、2017年はアメリカンフットボールのW杯が日本で開催されました。
私は前年度の活躍もあり、日本代表に呼ばれたんです。。
実は3年目に活躍し、日本代表に呼ばれた裏にもコーチの存在があったんですよ。
外人コーチ(奥さん日本人)がチームのオフェンスコーディネーターとしてやってきて、今まで知らなかったスキルやテクニックを教えていただき、私はまた一つ成長することができたんです。
日本代表には正直最終選考の45人に選ばれるとは思っていなく、最初はやる気がありませんでした。
初日の体力測定の前日には朝まで飲んでたりしていましたし笑
何より、前年度優勝したので優勝旅行でグアムにいけることが決まっていたので初海外旅行に浮かれていました。
一次選考の結果がでる当日は、優勝旅行でグアムに行くためのパスポートを取りに行こうと家を出ました。
家を出るとマネージャーから電話がかかってきて一言「おめでとう」。
正直複雑な気分・・・グアム行きたかった〜。
ただ、選ばれたからにはやるしかないと気持ちを切り替えて練習に参加しました。
しかし、最終選考前に落ちてしまったんです。
原因は2試合連続で同じパスパターンをミスをしてしまったから。
日の丸を背負うってことは簡単なミスは許されないんだなって痛感しましたよ。
そんな日本代表の経験も糧にはなりました。
練習の中で行なっていたマンツーマンの練習では誰にも負けなかったんです。
それはもう自信になりましたよ。
日本のトップレベル相手に1対1なら誰にも負けないんですから笑
解散と結成
優勝した翌年2007年シーズンを終えると、オンワードスカイラークスの名前の一つであるすかいらーくが新たな事業を打つために撤退することとなった。
2008年からはオンワードオークスとして再出発!
・・・かと思いきや2008年シーズンを終えたすぐ後、選手・コーチ・マネージャーなど全てのチーム関係者がオンワード本社に集められることに。
そして発表された「チーム解散」。
あまりに突然すぎて頭が真っ白になった。
昨日まで当たり前だったものが一瞬でなくなる瞬間を味わいました。
私はその2008年コーチと上手くいっていなかったため、オービックシーガルズから声をかけられており、移籍を考えていました。
チームがなくなったなら仕方ないと移籍を決めようかと思ったのですが、一人の漢が立ち上がったのです。
現ノジマ相模原ライズ代表まさに漢の中の漢。
自身もRBとしてオンワードオークスに所属していたのですが、代表を務めることでこのチームを継続させることに命をかけた漢です。
そしてできたのが日本初となる地域に根ざしたアメフトチーム「相模原ライズ」。
ただ、順風満帆ではなかった。
そもそも私たちに解散を発表したときにはすでに連盟へ届出がされており、最下部リーグからの出発でした。
たくさんの署名を集めても連盟は1部リーグ残留を認めてくれなかったのです。
相模原ライズという名前は、当時一般公募したところ相模原市内小学生の女の子が、また日本一を取ってほしいという願いを込め
「日はまた昇る」
という意味を込めて「ライズ」という名前をつけてくれました。
素晴らしい名前をいただき、地域の方に応援されながら最下部リーグから再出発。
しかし、チームメイトは全員んが残ったわけではなく、移籍する者、オンワードに勤めていた人は転勤させられアメフトができなくなってしまった人もいました。
そこで一番人数が減ってしまったのがDB。
そうです。
私が兼任することになったんです笑
WRはほぼ全員残っていたので、その年の秋からはDB専任となっていました。
ライズは順当に勝ち上がり、発足3年後の2011年。
念願の1部リーグへ返り咲きです!
残念ながらその年に優勝することはできませんでした。
そして私も引退をすることにしたんです。
フラッグフットボールとの出会い
ライズができた年から、私はライズの職員として働くことになりました。
そこで何をしようか迷っているところに出会ったのがフラッグフットボール。
2010年の学習指導要領の改定を受け、小学校の授業にフラッグフットボールが入っていたんです。
しかし、学校の先生が教えられるわけないですよね?
なので日中は小学校に出向きフラッグフットボールの授業を教えて回ることに。
戦略と戦術が鍵を握り、運動能力だけではないフラッグフットボールというスポーツにハマる子どもや先生が続出でした笑
午後は色々と練習できる場所を探し、月曜〜木曜まで放課後クラブを立ち上げることに。
基本的に幼稚園と小学生の2クラスずつ作り、たくさんの子ども達が通ってくれました。
地元への認知度も上がり、たくさんの子ども達の成長に携わることができ、本当にありがたい限りです。
そして極め付けは日曜日。
もともとライズの子ども達のファンとしてライズの選手が教える「ライズメイト」というクラブがあったのですが、思い切って「相模原ライズジュニアチーム」として生まれ変わらせ大会などに出るようにしちゃいました笑
それはもう色んなところに出向いてコネクション作りましたよ。
幼稚園〜小学校低学年はフラッグフットボール。
小学生高学年〜中学生は防具をつけたタッチフット。
最初はなかなか勝てませんでしたが、今や日本一常連のチームです!
子ども達のことを尊重した素晴らしいコーチがたくさん増えていったおかげです。
こんな感じでフラッグフットボールと出会い、より多くの方にアメリカンフットボールや相模原ライズを知っていただくことができていたんです。
ただ、それから約10年思うことがありました。
会の発足
ある日ふと思ったんです。
自分は「アメフトに育てられ、フラッグに助けられて」きたなって。
アメフトと出会わなければこんなに濃厚な人生を送れませんでした。
たくさんの人に出会い、経験し、人として成長することもできなかった。
フラッグに出会っていなければたくさんの子ども達を成長させる喜びは味わえなかった。
ライズの名前を広めることもできなかった。
冗談抜きで本当にそう思います。
そこで思ったんです。
「よし、恩返ししよう!」
でも何をしていいかわからなかったんです。笑
そしてもう一つ思うことがありました。
「なんでアメフトは関東や関西が主流なんだ?」って。
日本全国にアメフトをやっている学校やチームはあるのに、日本一を取るのは関東か関西のチーム。
フラッグも然りです。
そこで自分に何かできないことがあるか考えて考えた結果出た答えが、
『どこにいても会えるコーチ』
これだ!!って笑
そして『考えるフットボールの会』を発足したんです。
アメフトも日本全国に活動している学校、チームがあり、フラッグは今や日本全国に広がっています。
皆さんもきっとどちらかやられているから私のところにたどり着いたのではないでしょうか?
では聞きます。
やるからには勝ちたくないですか?
上手くなりたくないですか?
・・・
「上手くなりたい!」と思った方。
私が日本代表まで経験して培ったスキルやテクニックなど何でも教えますよ!
そしてもしこれを見ている方がコーチや指導者の方でしたら、ご要望とあらばコーチングもご指導させていただきます。
指導するからには勝たせてあげたいですもんね!
こんな僕でよければいつでもお問い合わせください。
日本全国どこへでも出向きます!!
もちろん関東や関西でも問題ないです笑
少しでもフラッグフットボールやアメリカンフットボールの底上げに尽力できれば幸いです。
まずは「お問い合わせフォーム」からお気軽にご相談ください。
皆さんに会える時を楽しみにお待ちしています!!